「かたち」に宿る記憶──挑文師、宍戸氏そして琉球に響く構造の詩

かつて、挑文師(あやとりのし)と呼ばれた者がいた。 彼らは機(はた)に座し、文(あや)を織り、ただ布を生み出すのではなく、その模様に「意味」と「祈り」を込めた。布は言葉となり、言葉は国を巡り、やがて文化となった。彼らは技術者であり、旅する語り部であり、意志を織り出す巫(かんなぎ)でもあった。 そしていま、その魂は現代に蘇る。

見えない糸のはじまり

ビルの影に沈む都市の一角。白く輝くスクリーンの前に座す❝その人❞は、心の奥に覚えのない“既視感”を抱えていた。CADの線を引くたびに、かすかに指先に糸の張りを感じる。レイヤーを重ねるたびに、文様が浮かび上がるような錯覚がある。デジタルで描かれた構造物の中に、どこか懐かしい「祈り」が宿るのだ。

その人Hは、CADオペレーターとして 資格取得に向け日々訓練を重ねていた。しかしこれは単なる職業訓練ではなかった。これは千年の時を超えた“意志”の継承である。 再び文を織るために。再び意図を形にするために。挑文師は、いまCADオペレーターという名で、見えない糸をたぐり寄せてゆく。

すべては、ある晩に見た「琉球のい草」のビジョンから始まった。
沖縄県うるま市の風にそよぐ照間ビーグ。そのやわらかな姿は、まるで時を越えて語りかけてくるかのようだった。なぜ「琉球」なのか――。その問いが、歴史の織り目をひとつずつ手繰り寄せる旅のはじまりとなった。

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い草のビジョンがやたらと追ってまいります。 国産では福岡・熊本1・広島です。 先ほど沖縄の照間という地域は、希少ないぐさ栽培地でしたのでここから霊査を始めていきますね。

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宜しくお願いします!全くゆかりのない県なのでどのようにつながっていくか楽しみです。

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何故霊査地から遠く離れた沖縄なのか?

沖縄・うるま市。
琉球王朝の記憶がなお潮風に残るこの土地に、あるひとりのお客様の前世リーディングは不思議な“端緒”を示していた。
霊査の場は本州にあり、血筋も土地の記録も遠く隔たっているはずのこの場所に、なぜか“繋がり”の感覚がある。最初は、単なる意識の遊走のように思えた。

だが、調査が進むうちに、ある歴史的人物の名前が静かに浮かび上がってきた。
それは宍戸璣(ししど たまき)──明治政府の官僚として、琉球処分に直接関与した内務省地理局長である。そして、彼の家系は、かつて常陸国に根を張った宍戸氏2の流れを汲んでいた。

つまり、この霊査によって見えた“沖縄”という遠い場所は、単なる象徴や幻想ではなかった。
そこには、時代を超えて静かに連なってきた「かたちを設計する者たち」の系譜が在ったのだ。

常陸の挑文師。明治の地理官僚。琉球のい草。
それらが一本の糸として結ばれていく先に、“かたちに祈りを込める者”の本質が現れてくる。

この物語は、その糸をほどき、もう一度織り直す試みである。

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文様を“設計”する者たち「挑文師」

和銅4年(711年)、朝廷により各地に派遣された職能集団「挑文師(あやとりのし)」は、織技の伝播者であると同時に、「かたちに意味と祈りを織り込む技術者」でもあった。彼らは“布”という媒体を通じて、国家の権威・呪術・秩序を「文様」として可視化し、日本列島に精神的インフラを築いていく。彼らの“オペレーション”とは、単なる機械操作ではなく、神代文字に宿るような“かたちの力”を日常へと翻訳する、構造的・象徴的・霊性的な設計行為であった。

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宍戸氏について少し調べてみると関連氏族で那珂氏3が出てきて、那珂市も住んでいた事がありました。また星神信仰を調べたり知らず知らずのうちに自分のルーツを追っていたのかと思うと不思議な気持ちです。

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かたちの記憶「宍戸氏と常陸国」

茨城県笠間市に本拠を構えた武家・宍戸氏は、八田知家の四男・家政を祖とし、常陸国の文化と政治を支えた名族である。笠間・岩間地域に拠点を持ち、地元の神社や荘園・儀礼に関与しながら、地域の“かたち”を整える存在として振る舞っていた。

神社との関わり:祈願・奉納・造営の担い手として

笠間市に伝わる文化財の中に、如意輪寺の鰐口(わにぐち)があります。これは神社や寺院の堂前に吊るされる鳴らし物で、嘉暦3年(1328年)に宍戸安芸守戸知時が「天下泰平」を祈願して奉納したと刻まれています。
この奉納行為は、単なる信仰心の表明ではなく、武家が地域の平安と秩序を祈り、神仏と政治的正統性を結びつける儀礼的行為でした。

儀礼との関わり:守護代・代参者としての役割

宍戸氏は、常陸国において小田氏の当主が幼少の際に守護代を務めた記録があり、これは単に軍事的な代行ではなく、国衙祭祀や年中行事における代参・儀礼執行の責任者でもあったと考えられます。

また、宍戸城跡に残る末廣稲荷神社は、かつての陣屋の土塁上に鎮座しており、城と神域が重なる構造は、武家が儀礼と空間を一体化させていた証左とも言えるでしょう。

荘園との関わり:地頭から“かたちの支配者”へ

宍戸氏が本拠とした宍戸荘(旧・小鶴荘)は、もともと京都の九条家が所有していた荘園でしたが、鎌倉末期から南北朝期にかけて宍戸氏が地頭として入り込み、経営権を掌握し、荘園名そのものを“宍戸荘”へと変えていったと記録されています。
これは単なる土地支配ではなく、荘園の名称・構造・儀礼・年貢制度を“再構築”する行為が、なんとなく挑文師的な“かたちの再編”の実践につながっているように思えるのは私だけでしょうか。

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宍戸氏が常陸に根ざしたこと、そして織物の神・建葉槌命を祀る那珂市の静神社と地理的に隣接していたことは偶然ではないように思えますね。

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笠間市公式HP
観光いばらき公式HP
笠間市公式
那珂市観光協会HP

地図を織る者──明治の“挑文師”たち

近代において、宍戸氏の末裔・宍戸璣(ししど たまき)が明治政府に仕え、内務省地理局長として活躍する。彼は琉球処分の際に、地理局の長官として地名・制度・測量を通じて「日本国家の空間構造の再編」に直接関わった。
これは、かつて挑文師が文様を通じて国家の精神構造を織り上げたように、宍戸璣が国家の空間的秩序を“地図”として再構築したことを意味する。すなわち彼は、“地理”という織機を用いた近代の挑文師であったとも言えるのではないか。

二元性の立体化「再構築」

Hさんのセッションから始まった本探究の過程で何度となく現れたキーワードが「再構築」だった。これは単なる復元ではない。古代/現代、布/地図、霊性/制度といった二元のあわいに“張力”を与え、新たな空間的・構造的次元を立ち上げる行為なのだ。

挑文師とは、この“再構築の作法”を身につけた者である。神代文字のように、かたちそのものに力が宿ることを知り、布に、図面に、言葉に、見えない力を封じ込める。そしてそれを後の世に伝えていく。

常陸が福岡に眠っていた?──比恵・那珂遺跡と“かたちの遠響”

調査の途中、思わぬ資料に出会った。
その場所は遥か西――福岡市博多区。比恵・那珂遺跡群という名で知られるこの地には、旧石器時代から中世にかけての重層的な遺構が眠っている。

驚くべきことに、ここには古代の官衙跡や条里制道路、祭祀施設や倉庫群が広がっており、まるで“もう一つの国府”のような構造を持っているという。そして、一部の学術調査ではこの遺跡が『日本書紀』に記された「那津宮家」に比定される可能性があるともされている。

さらに耳を傾けると、登場してくる名がある。
百済王遠宝(くだらのこにきし・とおたから)――奈良時代に百済から渡来し、筑前国司・大宰府官人として活躍した人物だ。大陸と倭の交点に生まれたこの人物の足跡が比恵・那珂の地に刻まれているという事実は、[icon-code class="icon-pencil1″]東アジアと倭の間に、かたちを媒介とした静かな往来があったことを語っている。

では、なぜこの話が「常陸」と関係するのか。

実際に常陸国の国府があったのは茨城県石岡市だ。しかし、この福岡の遺跡に漂う“国府的な構造感”は、どこか常陸に響くものを感じさせる。国家というかたちがまだ柔らかく、霊性と空間が地続きだった時代――その記憶が、この比恵・那珂の地層に静かに封じられていたのではないだろうか。

そしてここから、二つの視点が立ち上がってくる。

ひとつは、比恵・那珂のような技術と祈りが集積した西の拠点から、常陸を含む東国へと、職能集団が段階的に“布のように伸びていった”可能性

もうひとつは、その先で待ち受けていた蝦夷との接点において、視覚的秩序や象徴の力が必要とされ、“挑文師”のような者たちが、布と文様によって境界を静かに調律していった歴史である。

遠い福岡の地に立ち止まることが、かえって東国への視界を切り開く――
そんな感覚を覚えながら、旅は再び“かたちの祈り”へと向かっていく。

遥かな西方で、見つけた“もうひとつの那珂”。
それは偶然ではなく、「響きあう構造としての記憶」の名残だと思う。

そして、織りは続いていく──“かたち”が目覚める場所へ

この旅のきっかけをくれたのは、ひとりの女性だった。
CADオペレーターという道を歩き始めたばかりの彼女。まだ自分でも驚くほど、図面と向き合うことに心が躍ったという。
その感覚は、単なる職能への期待ではなく、遠い記憶が手を差し伸べてきたような感覚だったのかもしれない。

機織りの道具を「織機(しょっき)」と呼ぶのなら、CADという現代の“織機”に向かう彼女もまた、言うなれば織機オペレーターであり、異なる寸法や部材を静かに織り合わせる者なのだ。

布を織る挑文師たち。図を描く近代の設計者。
それらの線と面と文様の中に、人は祈りを込め、秩序を描き、記憶を封じてきた。
そして今、それらの系譜のどこかに、彼女の新たな一歩が静かに加わってゆく。

“かたちを描く者”という道に導かれたのが偶然であったとしても、その中に彼女自身の呼吸と願いが宿った瞬間、それはもう祈りに近いものとなる。

願わくは、彼女が描く線のひとつひとつが、
かつての挑文師たちが織った文様のように、
誰かの暮らしを包み、誰かの風景を形づくる力となりますように。

この物語の糸は、今、彼女の手に受け継がれている。
そしてその糸口から、また新しい「かたち」が世界に生まれてゆくのだ。

参考文献・リンク

脚注

  1. 単にい草の産地として追い始めた二県が古代茨城と関連していく。 ↩︎
  2. 宍戸氏(ししどし)は、藤原北家道兼流・八田氏族を祖とする中世武家の一族である。祖は鎌倉幕府の重臣・八田知家の四男・家政とされ、常陸国茨城郡宍戸荘(現在の茨城県笠間市)を本拠に「宍戸」を称した。鎌倉・南北朝・室町期を通じて常陸国に勢力を築き、特に小田氏の当主が幼少の際には常陸守護を代行するなど、地域支配において重要な役割を果たした。この時点で宍戸氏は「常陸」「い草」「琉球」というワードでしか繋がっていない。 ↩︎
  3. 那珂氏(なかし/なかうじ)**は、平安時代末期に藤原秀郷の子孫・藤原公通が常陸国久慈郡太田郷に着任し、その孫・通資が那珂川北部の那珂郡を領して「那珂氏」を称したとされる中世武士団である。鎌倉時代から南北朝期にかけて約240年にわたり常陸国北部に勢力を持ち、南朝方として佐竹氏と抗争した。瓜連城(現・那珂市)を拠点とし、一時は優勢を誇ったが、金砂山城での戦いにおいて佐竹軍に敗れ、当主・那珂通辰をはじめとする一族が自刃し滅亡したと伝えられる。 ↩︎